「誰のためのデザイン?認知科学者のデザイン論」を読んで

「縦書きの分厚い本」一般的な所謂 活字本を今まで読破したことのない堀川です。ハリーポッターブームどんぴしゃ世代ですが小説嫌いの所為で盛り上がりに付いて行けなかった思い出があります。偉人伝記は好きでしたが、それすらも暗殺される前後だけ、読書感想文もあとがきだけを読んで済ませたりと、兎に角まともな読書の経験がありませんでした。

そんな私が400頁程あるこの本に挑んだのは上司のすすめで、これから社会人として本を読む習慣を身につけることが重要ということはもちろん、デザイナーとして必要な基礎知識を学ぶためです。ここ1ヶ月間、ロゴデザインの訓練をさせてもらっているのですが、経験のない私はコツも全く掴めていませんし、クライアントが欲しているものを汲み取ることや、ユーザー目線に立つことなど、様々な「狙い」を外してばかりいます。経験を積む上で身に付く部分も多分にあると思いますが、その経験を質の良いものにするべく、まず今、学問としてのデザイン論を学び基礎を固める必要があると思いました。
読む習慣がないというのはなかなか厄介なもので、なかなか時間と体力のいる作業でしたが、本書を自分なりにまとめ、解釈したものを今日は書いてみようと思います。

##「押すべきドアを引くことから見えるもの。」

【ある道具や製品に対して、誤ったアプローチをしてしまいエラーが起きたとき、人の多くはエラーの原因を「上手く使えなかった自分」と認識してしまう。】
身近なことを例に挙げると、押して開けるドアを引いてしまったとき、電気を付けようとスイッチを押し、狙いと違う場所のライトを点灯させてしまったときなどですね。きっと誰しも経験のある間違いではないでしょうか。しかしながらこのエラーは、ユーザーのせいではありません。「ユーザーが誤ってしまうようなわかりにくいデザイン」「ユーザーを正しい方へ誘導できていないデザイン」に原因があると書かれています。確かに自分を振り返ってみると、押すべきドアを引いたとき、ドジを踏んで恥ずかしいと思いますし、他人がこのようなミスをして「このドアはデザインがわかりづらいな。」という反応をしたとしたら、妙な言い訳のように感じると思います。しかし違うのです。正しくデザインされたドアは、「押」とラベリングしなくとも感覚的にユーザーは押すのです。まず、このことに気づくことが大切だと思いました。振り返ってみればそういうわかりにくい物は日常に溢れています。それに出会ったとき、使いこなせない自分を責めていましたが、本書の著者は、(「私はマサチューセッツ工科大学の工学士号をもっている。ケネス・オルソンは二つももっている。それなのに、電子レンジの使い方がよくわからないのだ。」)と言ってくれています。こんな風に言えたら格好いいですが…(笑) このように、とても賢いであろう人すら簡単なはずの電子レンジを使いこなせないのであれば、それはヒューマンエラーではないのです。

##「目に見えるフィードバック。」

また、【ユーザーは道具の正しい仕組みなど理解する必要はない】とも書かれています。個人的にすごくわかりやすかったのが、自転車です。自転車の構造や正しい仕組みを説明できなくても、自転車には乗れます。これには対応づけ(マッピング)の原則が関係しています。これは、コントロール手段とその動きと、それが実際の世界に及ぼす結果の間の関係のことをここでは表しています。例えば自動車のハンドル。それは、「右に傾けると右に曲がる」と頭で記憶しているというより、感覚としてわかるのではないでしょうか。これは動きとその結果が正しくマッピングされているデザインだからです。
その対応づけが上手くいっていない例はたくさんありますが、電話機に多く見られます。保留ボタンのついていない電話機でもほとんどの製品には保留機能はあるそうです。【7】を押すと保留などというルールが勝手に設定されているのです。これはもちろん、取扱説明書に丁寧に書いてあるのですが、【7】などという保留と一切結びつきのない数字をいちいち覚えているなど、そこまでユーザーは1つの道具に対して記憶力を働かせなければいけないのでしょうか。その点、ハンドルは操作するために記憶することはほとんどありませんし、右に傾けると同時に右に曲がるので、今の行動が正しかったという結果が即座に目に見えて返ってきます。この可視的フィードバックがデザインにおいて重要な要素の一つだと思います。

##「学習された無力感。」

日々たくさんの道具に囲まれている私たち、本書によると毎日使うものは2万個あるそうです。毎日繰り返し使っているのにも関わらず失敗してしまうことはあります。それを多くの人は自分のせいだと責め、「私は機械音痴だから」という言うようになります。ただの文房具一つ、失敗を繰り返すことで「道具を使う能力のない人間なんだ。」というように【学習された無力感】が生まれてしまうのです。この無力感は悪循環となり、一つの小さな失敗から「機械音痴」という認識(時に思い込み)となってしまいます。
さらに言えば、機械音痴だと思い込んだユーザーは不具合について誰も声をあげないので、いつまでもデザイナーは自信満々にその間違ったデザインをし続けます。すると改善されず良いものはなかなか生まれません。これも本の中で挙げられていた実例ですが、あるチームが新しいキーボードを開発しテストしていた時、何かエラーがあったら報告するように言われていた人たちは、紛らわしいキーの配置のせいで何度も同じタイプミスを繰り返していましたが、誰もそれをエラーとして報告した人はいなかったそうです。その理由はまさに、「これはエラーではなく、私のミスだから」。
まずは、ユーザー側が、何か使いにくいな、わかりづらいなと思ったときに自分を責めるのではなく、デザインに疑問を持つべきなのだと思いました。

今回の投稿では、1〜3章の内容を中心に自分なりの解釈を書いてみましたが、なかなかまとめながら自分の考えや感想を入れていくのは難しいですね。この本を読み進めていて1つ気になったのは、実例として挙げられている道具への違和感です。DVDには一切触れずあまり馴染みのないVTRの操作について延々話していますし、何よりこの題材で一番に標的にされそうな携帯電話やスマートフォンが何故スルーされているのか。…1990年出版でした。私の生まれた年です。(笑)しかし、良書というものは古くても良書でした。長くなりすぎてしまいそうなので、次回残りの4〜7章の内容から書いていこうと思います。

誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

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